3年間の香港駐在後、2021年3月に帰国し独立起業した山奇智幸さん。長男・大悟くん(8歳)と次男・侑悟くん(6歳)を授かるまでの苦難や、コロナ禍で駐在した香港での子育て、妻・いずみさん(41歳)の入院など、さまざまな経験を経た今、山奇さんが心がけていることとは?
■Profile
山奇 智幸(やまき ともゆき)さん
tomo.株式会社 代表取締役
1977年生まれ。大野城市出身。大学卒業後、三井物産の本社勤務と韓国駐在を経て、2011年、福岡県庁に民間経験者枠で入庁しUターン。企業誘致や国際部門を経て、2018年から3年間、福岡県香港事務所長として家族で香港駐在。2021年に帰福後、独立して7月にtomo.株式会社を設立。海外向けプロモーション支援業務などを行う。現在、大悟くん(8歳)と侑悟くん(6歳)の子育て中。
不妊治療を経て授かった子どもたち
――お二人の出会いをお聞かせください。
韓国駐在時代に、福岡県庁への転職が決まった後、九州支店に勤務していた先輩から紹介してもらいました。帰国までの短期間は遠距離でしたが、福岡と韓国の距離は東京よりも近いですし、韓国と福岡で会ったりしていました。
――ご結婚はいつ頃されたのですか?
私が福岡に戻ってから妻の両親に結婚の挨拶へ行きました。5月の妻の誕生日に入籍して、7月の私の誕生日に結婚式をあげたので、今のところ記念日を忘れたことはありません。
――結婚前、二人で子どもを持つことや育て方などについて話をしましたか?
育て方までは話していませんが、子どもはいつでも授かりたいと思っていましたし、そのうち出来るのかなと思っていました。ただ、なかなか出来なかったので、色々とやれることを試していました。不妊治療の一環で受けた卵管造影検査では、妻にひどい蕁麻疹が出てしまって非常に大変な思いをしていましたね。そんな苦労もあったんですが、その後、長男の大悟を授かりました。
――初めての子どもができたことを知った時の気持ちはいかがでしたか?
妻も大変な思いをしての妊娠・出産だったので、すごく嬉しかったです。やっと出来た、と。両親も初孫を楽しみにしていたので、とても喜んでいました。
――お二人目の時はいかがでしたか。
兄弟も欲しいと思っていたのですが、すぐにはできなかったので不妊治療をしました。ただ、卵管造影はアレルギー反応が出てしまうので、最終的には体外受精を行い、幸いにも第二子に恵まれました。
――いずみさんも大変だったでしょうね。
当時は共働きだったので、妻は仕事帰りに産婦人科へ通ったりと大変だったと思います。計画的に出来るものでもなく、年齢を重ねればそれだけ確率も下がっていくと言われていましたし…。費用面でも結構かかりました。
子どもの病気やアレルギーを経験して心がけていること
――子どもが生まれてから、生活や意識は変わりましたか?
子ども中心の生活になったのはもちろんですが、長男の大悟が生まれて数カ月後に体調を崩して、体温が42度まで上がって熱性痙攣を起こした時はどうして良いか分からず、救急車を呼びました。無事に退院できましたが、原因は尿路感染症という病気でした。その後も何度か熱性痙攣を繰り返すことがあったんですが、冷静に対応できるようになりました。生まれたばかりの頃はあまり子育てという実感が沸かなかったんですがこういう経験をして、体調の変化はちゃんと見ておかないといけないなと意識するようになりました。
――体調管理以外に気をつけていることはありますか?
食べ物にも気を配っています。子どもが二人とも卵アレルギーで、卵を使ったものを食べてしまうとアナフィラキシーショックになることがあるので、特に外食では注意していますね。海外では何が使われているのか分からないことも多いですし、香港在住時は学校や幼稚園にも伝えていました。
デモにコロナ禍…激動の香港に3年間駐在。現地での子育ては?
――香港駐在が決まったときのことをお聞かせください。
大悟が5歳、侑悟が2歳の時に香港へ行きました。県庁の国際部門に勤務する中で、いずれ海外でも仕事をしたいというのはありましたので、以前から希望は出していて。2018年から、香港で福岡県のプロモーション業務などを行う「福岡県香港事務所」の所長として、3年間駐在することになりました。
――では、いずみさんも海外へ行くことについては心構えをされていたんですね。
私は2回目の海外駐在でしたのでそんなに構えることはなかったんですが、妻は初めての海外生活でいろいろ心配事はあったと思います。実際、現地で2回ほど子どもを救急病院に連れていったことがあったりもしましたし。そういう時は言葉が話せる私が連れて行っていたんですが、海外出張などで長期不在にしている時に体調不良になると不安だったと思います。
――息子さんたちは現地の幼稚園に通っていたんですか?
英語と日本語が半々の幼稚園に入園しました。インドや香港、中国、いろいろな国籍の子ども達に混じって、異文化のなかで3年間過ごしたのは貴重な経験だったと思います。特に次男の侑悟は、集団生活のスタートが自由な環境だったので、帰国後、日本の幼稚園ではちょっと戸惑うこともあったようです。近所の小学生のお兄ちゃんたちを、下の名前で呼び捨てにしたりだとか(笑)。でもあまり押さえつけずに、日本でものびのびとさせています。
――幼稚園のシステムは日本と比べていかがでしたか?
息子たちが通っていた幼稚園は、午前中は英語、午後は日本語で、週に何度か中国語のレッスンもありました。日本の幼稚園でも英語の授業が何度かある場合もありますけど、子どもたちが通っていた香港の幼稚園では英語を基本にして、そこに中国語も入ってくるという感じでした。今はだいぶ忘れたようですが、特に当時2歳だった次男は、家でも中国語の単語を教えてくれてましたね。語学をはじめ、子どもたちの適応力は凄いなと思いました。
――息子さんたちにとっても大きな環境の変化でしたね。
特にコロナ禍では、香港と日本の両方で隔離生活も経験しました。また2020年3月から7月までの5カ月間は、妻と子どもたちが一時帰国することになったりと、急な環境の変化が続いて大変だったと思います。なかでも長男は3月に一時帰国して福岡の幼稚園に入園し、4月には福岡の小学校へ入学、さらに7月には香港へ戻って現地の日本人小学校へ編入と、4カ月間に3回も学校が変わったのですが、文句ひとつ言わずに休まず頑張ってくれていました。
――コロナ禍での行き来はご苦労が多かったのですね。
一時帰国の際の、子どもたちの幼稚園探しが大変でした。2020年1月の新型コロナの発生が中国の武漢からということで、「中国から帰国された方はちょっと…」とお断りされることが多くて。中国は広いですし、場所によって状況はかなり異なります。特に香港は2003年のSARS大流行を経験しているので香港人の皆さんの感染症に対する意識はとても高かったです。最終的には、香港の状況などにご理解あった、とある英語の幼稚園が受け入れてくださり、大悟は1ヶ月、侑悟は5ヶ月お世話になりました。
――ご家族が香港に戻られてからも、コロナ禍が続いて大変だったのでは。
私は出勤していましたが、子どもたちがずっと家にいるので妻は大変でしたね。2020年7月から長男は香港の日本人学校に編入、次男は元の幼稚園に戻りましたが、感染症対策が厳しいので、どちらも全てオンライン授業だったんです。特に幼稚園児はワチャワチャして集中が続かないので(笑)、基本、常に妻が横にいないといけませんでした。
――子育てをする上で気をつけていたことはありますか?
日本もそうだと思いますが、コロナ禍で子どもたちの身体能力が落ちているということも聞いていましたので、週末はできるだけ外へ連れ出して体を動かすようにしてましたね。でも人混みは避けないといけないので、トレッキングやサイクリングのコースに連れていったり、フェリーでキャンプに行ったりだとか、アウトドア中心で遊ぶようにしていました。
――激動が続いた香港での子育てで、思い出に残っていることはありますか?
子どもたちにも、私の仕事であった福岡のプロモーションに一役買ってもらっていました。意識的にそうしていたわけではなく、たとえば子育てを通して知ったお出かけ情報などは、親子旅の提案に役立ちましたね。あとはちょうど香港でも「鬼滅の刃」がブームだったんですが、福岡にも聖地が何カ所かあるということで、長男には炭治郎、次男には善逸のコスプレをしてもらって、PR動画に出てもらったりしました。子どもたちも大好きなアニメでしたし、すごく楽しんでましたね。香港在住の日本人親子ということで、現地の有名な観光雑誌の特集に掲載されたのも良い思い出です。
――ほかに、現地の方との関わりで印象に残っていることは?
子どもたちが迷子になりました。うちは利用してなかったのですが、香港はメイド文化があるんです。ちょうどその日が日曜日で、街には休日を楽しむメイドさんがたくさんいて、知らないメイドさんが迷子になっていた息子たちの面倒をみてくださっていたのはすごく助かりました。
子どもたちには多様な経験をして、海外との懸け橋になってくれたら嬉しい
――2021年3月に帰福後、独立開業されています。現在の仕事と子育てのバランスはいかがですか?
サラリーマン時代は基本的に土日が休みだったので、家族でお出かけや旅行に行くなど出来ていましたが、今は、まだ会社を立ち上げたばかりで余裕もなく、普段はあまり子どもたちの相手が出来ていません。西区に住んでいますので、休みの日には能古島でのんびり過ごしたり、キャンプしたり、夏休みには平戸へ釣りに行ったりはしましたね。あとは、料理人や陶芸家など職人系の知人を訪ねて、魚の捌きを見せてもらったり陶芸体験をさせてもらったりもしました。
――息子さんたちにはどのように育ってほしいですか?
いろいろと迷ったり寄り道をしながらも、自分がやりたいと思えることを見つけて欲しいなと思います。私自身、生まれも育ちも福岡ですが、子どもたちには福岡や九州の恵まれた自然の中で伸び伸びと成長して欲しいなと思います。無理強いは出来ませんが、自分の生まれ育った故郷を好きになってもらいたいですし、どの道に進むにしても、自分の故郷や日本と海外の架け橋になってくれたら嬉しいですね。
完璧を目指さず、無理せず自分ができることを
――日本と香港で育児を経験されてきた山奇さんですが、ご夫婦の役割分担は?
香港にいた時は仕事中心の生活をさせてもらって、家のことは妻が中心にやってくれていました。車がなかったので買い物を一緒にしたり、救急病院の時もそうですが、子どもの病院にはよく私が連れて行ってましたね。帰福後は、基本的に朝は私が幼稚園まで車で見送りをしています。家で仕事をすることも多いので、早朝に打合せがなければ掃除機を掛けたり、夕方は子どもをお風呂に入れてついでに掃除したり、あとは、ゴミ捨てや子どもを病院に連れて行ったりとか…。はっきり分担を決めているわけではないですが、私でも出来ることをやっています。
――子育てをする上で、大事だと思うことは?
仕事もそうですけど、何が起きるか分からないので、事前に準備や勉強することも大事だとは思いますが、私の場合はその場その場で経験したことを、次に生かしていくことでしょうか。いろいろ構えて100%完璧にやろうとすると疲れてしまうので…。
――いずみさんが入院されたことがあったとか。お一人での子育てはいかがでしたか?
妻が今年(2021年)の10月、低髄液圧症候群という倦怠感や頭痛などが起こる病気で1ヵ月入院したんです。コロナ禍で面会も出来ない中、男3人で生活しました。食事の準備から掃除洗濯、幼稚園への送迎など、県内に住む両親にもサポートしてもらいながら何とか乗り切ることが出来ました。また同じ集合住宅に住むママ友の皆さんが、子どもが外で遊ぶのを見てくれたりと、いろいろと助けていただいたのも心強かったです。
――最後に、これからパパになる人たちや子育て中のパパにメッセージをお願いします
子どもの成長はあっという間なので、一緒に過ごせる時間は本当に貴重です。だからこそ、親である自分たちの健康も大事だと思います。仕事と育児で自分の自由な時間が持てないことが多いですが、私も健康のためになるべく徒歩や自転車で移動したり、時間を見つけて出来ることをしています。子育ても完璧でなくても、無理をせず自分の出来ることを、やれる範囲でするのが良いのかなと思います。
取材後記
不妊治療や海外での子育て、妻の入院と、予想もつかない日々の中、目の前の出来事を冷静かつ懸命に乗り越えてきた山奇さん。さまざまな経験からたどり着いた「子どもたちのためにも健康第一。だからこそ完璧を目指さない」という考え方は、核家族中心の現代の子育てにおいて、実は大切なことかもしれません。そんな父の背中を見ながら、香港と福岡で多様な経験を積んでいる息子さんたちが将来、どんな大人やパパになるのか楽しみです。
西 紀子
フリーライター・編集者
福岡市出身。大学卒業後、フリーペーパー編集部や企画制作プロダクションにて編集・ライティング業務に従事。2017年よりフリーランス。未就学児2人の子育てに奮闘中。