カルチャー

博多の偉人39選[vol.5]|福岡・博多にゆかりがある歴史上の人物とは?

西日本シティ銀行は、地域の活性化や豊かな地域社会づくりに取り組んでいます。また、関連財団を通じ、文化から国際交流までさらに幅広い活動を実践しています。地元の歴史や文化の伝承も、その取組みのひとつです。

西日本シティ銀行の前身である福岡相互銀行が1979年に発行した小冊子「博多に強くなろう」「北九州に強くなろう」。当時、「地域の歴史や文化について自ら学ぼう、そして多くの人にも知ってもらおう」という思いから、さまざまなテーマで専門家や郷土史家による座談会が開催されました。

その後、この冊子の発行は、合併によって誕生した新生・西日本シティ銀行に引き継がれ、2008年(平成30年)には100号を迎えました。近現代のテーマでは直接の関係者による証言もあり、貴重な史料といえます。

この記事では、そんな「博多に強くなろう」の中から人物に焦点を当てます。各人物の生きざまが躍動的に綴られた対談記事へのリンクも併せて掲載していますので、ぜひ当時の貴重な情報にも触れてみてください。

孫文と博多

孫文は、多くの日本人と関わりを持った「中国革命の父」です。
慶応2年に中国の広東省香山県で貧しい農家の次男として誕生した孫文は、12歳のときに兄を頼ってハワイに渡って西洋の教育を受けました。明治25年には中国人として初めての博士の学位を取得しました。
孫文は、「民族主義」「民権主義」「民主主義」の「三民主義」を辛亥革命のスローガンとして提唱しました。明治45年には南京に臨時政府「中華民国」が建国され、孫文は中華民国の臨時大統領に就任し、革命は成功しました。
中国大陸、台湾のいずれにおいても国父として現在も尊崇されています。

野見山朱鳥

野見山朱鳥は、福岡出身の俳句界の革命児です。
大正6年4月30日に福岡で誕生した野見山朱鳥は、高浜虚子に師事し「ホトトギス」に投句し同人となり、「菜殻火」を創刊し主宰誌としました。
美術の才能があった野見山朱鳥は、病弱のために画家の道を諦めた俳人川端茅舎に傾倒しており、「如く俳句」と呼ばれる「如く」を用いた句を多く作りました。
昭和33年には波多野爽波、橋本鶴二、福田蓼汀と四誌連合会を結成して新人の顕彰に当たりました。同45年肝硬変のため飯塚病院にて死去しました。

福本日南

福本日南は、福岡出身の新聞記者です。
安政4年5月23日に福岡藩士泰風の長男として誕生した福本日南は、幼いころから向陽義塾で経書を学びました。司法省法学校に入学しましたが陸羯南らと寄宿舎の賄征伐事件を起こしたため退学処分を受けました。その後、陸羯南が創刊した「東京電報」に入社し、編集幹部として活躍しました。
明治38年に玄洋社の機関紙「九州日報」の社長兼主筆となりました。同41年には憲政本党から出馬して衆院議員に当選しました。

平野国臣

平野国臣は、幕末に活躍したソロの志士です。
文政11年3月29日福岡藩足軽・平野吉郎右衛門の次男として誕生した平野国臣は、24歳のころに福岡県の宗像大社中津宮の営繕に携わりました。
新選組に追われながら生野の変を起こしましたが失敗し、六角牢獄に入れられました。その後、禁門の変の兵火の中で幕吏は獄中の尊王攘夷派の志士たちを斬りました。このとき斬られた一人が平野国臣です。
元治元年、明治維新のわずか4年前37歳という若さでその生涯を終えました。

稲光弥平

稲光弥平は、住吉と春吉をつなぐ「住吉橋」を私費で寄進した幕末の博多っ子です。
那珂川にかかる住吉の参宮橋は、洪水のたびに流失していました。春吉に住む豪農だった稲光弥平は川の真ん中に人工島を造って流水を二分すれば流水が弱くなると考え、安政2年川の中央に人工島を築いて橋をかけ、流出を防ぎました。
昭和に入ると鉄筋コンクリートの住吉橋に架け替えられましたが、その工事の際に顕彰の碑が人工島に埋まっているのが発見されました。真のボランティア精神を持っていた稲光弥平の記念碑が現在の住吉橋のもとに設置されています。

西島伊三雄

西島伊三雄は、博多が生んだ天才絵師です。
大正12年福岡で誕生した西島伊三雄は、福岡市地下鉄各駅のシンボルマークやラーメン「うまかつちゃん」のパッケージデザインなどで知られ「博多が生んだ天才絵師」と呼ばれました。世界観光ポスターコンクールでは最優秀賞を受賞しました。
また、西島伊三雄は福岡文化連盟理事長として、韓国釜山市との文化交流も積極的に関わり、国際交流においても貢献しました。
西島伊三雄は七隈線開業の4年前にすい臓がんで他界しました。

後藤又兵衛

後藤又兵衛は、「大坂の陣」で活躍した智勇の豪将です。又兵衛は名称であり、名は基次。永禄3年に後藤基国の子として兵庫で誕生した後藤又兵衛は、黒田孝高・長政につかえていました。
豊臣秀吉の九州攻めや朝鮮出兵、また関ケ原の戦いで活躍しましたが、のちに長政と不和となって謀反の嫌疑をかけられて牢人となりました。
慶応20年56歳のときに大坂の陣に河内道明寺で戦死しました。後藤又兵衛の菩提寺である多聞寺は、現在も真牌を本堂に奉安しています。

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