カルチャー

博多の偉人39選[vol.3]|福岡・博多にゆかりがある歴史上の人物とは?

西日本シティ銀行は、地域の活性化や豊かな地域社会づくりに取り組んでいます。また、関連財団を通じ、文化から国際交流までさらに幅広い活動を実践しています。地元の歴史や文化の伝承も、その取組みのひとつです。

西日本シティ銀行の前身である福岡相互銀行が1979年に発行した小冊子「博多に強くなろう」「北九州に強くなろう」。当時、「地域の歴史や文化について自ら学ぼう、そして多くの人にも知ってもらおう」という思いから、さまざまなテーマで専門家や郷土史家による座談会が開催されました。

その後、この冊子の発行は、合併によって誕生した新生・西日本シティ銀行に引き継がれ、2008年(平成30年)には100号を迎えました。近現代のテーマでは直接の関係者による証言もあり、貴重な史料といえます。

この記事では、そんな「博多に強くなろう」の中から人物に焦点を当てます。各人物の生きざまが躍動的に綴られた対談記事へのリンクも併せて掲載していますので、ぜひ当時の貴重な情報にも触れてみてください。

栗野慎一郎

栗野慎一郎は、近代日本への歩みに大きく貢献した外交官です。
嘉永4年11月7日栗野小右衛門の長男として福岡市に誕生した栗野慎一郎は、明治8年にハーバード大学に留学をし、14年に帰国後外務省に入省しました。翌年外務権少書記官となりました。明治27年から各大使を務め、日露開戦時にはロシア兼スウェーデン公使としてロシアに赴任していました。
そして明治34年にロシア駐箚特命全権公使となり、日露開戦前の対露交渉に努めました。同39年には初代フランス駐箚特命全権大使に就任し、日仏協約の締結及び通商条約改正交渉に尽力しました。

菊竹六皷

菊竹六皷は、反軍の姿勢を貫いた硬骨のジャーナリストです。
明治13年1月25日福岡県で誕生した菊竹六皷は、幼時に手術の失敗により左脚が不自由となりましたが、屈せずに言論界を志し、東京専門学校(現 早稲田大学)を卒業後福岡日日新聞に入社しました。
菊竹六皷は、五・一五事件における少数軍人による虐待に対し、「首相兇手に斃る」「敢て国民の覚悟を促す」という社説をかかげて痛烈な軍部批判を行い、久留米師団をはじめとする軍部や右翼からの脅迫、不買運動などを招きましたが、頑として屈しなかったと言われています。

中村ハル

中村ハルは、中村学園を創設した女性教育者の先駆者です。
明治17年6月1日に福岡県の西新町で誕生した中村ハルは横浜で小学校教員を勤めながら料理を研究していました。帝国ホテルや目黒雅叙園などの一流店に乗り込み、カレーで収益を上げ、のちに空襲で焼けた校舎再建の資金となりました。
昭和5年に福岡へ戻り、九州高等女学校に勤務しました。
中村ハルは「人間は頭の良し悪しや学力の優劣よりも何よりも人物が出来ていることが基本である」を信条として、日本人としての豊かな感性を持って、さらに知性と人間性のバランスのとれた女性を育成したいと、昭和24年に中村学園女子高等学校を設立しました。

中村研一

中村研一は、日本アカデミズムの巨匠です。
明治28年5月14日に福岡で誕生した中村研一は、明治42年に中学修猷館に入学し、絵画同好会「パレット会」を創立して西洋絵画を勉強しました。
大正3年に同校を卒業、美術学校進学を希望したが父の許可が得られず、京都に出て鹿子木孟郎の内弟子となったそうです。翌年には父の許可を得て上京し、東京美術学校西洋科に入学しました。
大正9年には帝展に「葡萄の葉蔭」で初入選、翌年「涼しきひま」で特選を受賞しました。そして同12年にはついに渡仏、モーリス・アスランに写実を学び、昭和5年には「弟妹集う」で帝国美術院賞を受賞しました。

金子堅太郎

金子堅太郎は、明治期の官僚・政治家で、日本法律学校(現 日本大学)の初代校長となった人物です。
嘉永6年2月4日福岡藩主金子直道の長男として福岡で誕生した金子堅太郎は、明治4年からハーバード大学で法律学を専攻していました。
明治23年には貴族院書記官長を務めました。
同37年の日露戦争時には、ハーバード留学時代にセオドア・ルーズベルトアメリカ大統領と面識があった金子堅太郎はアメリカに渡って、日本の戦争遂行を有利にすべく外交交渉・外交工作を行いました。

C・K・ドージャー

C・K・ドージャーは、西南学院大学の創立者です。
明治12年アメリカのジョージア州で誕生したC・K・ドジャーは、マーサー大学、南部バプテスト神学校を卒業後、のちに西南女学院を設立する宣教師J・H・ロウと共に来日しました。キリスト教教育を基にした学校が必要ということで、大正5年4月福岡市中央区赤坂1丁目に、現在の読売新聞西部本社がある場所に当初、福岡市初の男子の私立中学校として私立西南学院を創設しました。
今もなお、C・K・ドジャーの遺言「西南よ、キリストに忠実になれ」に示されている教育理念は揺らぐことなく受け継がれています。

中野正剛

中野正剛は、純粋に国を憂いた政治家です。
明治19年2月12日福岡市で誕生した中野正剛は、早稲田大学を卒業後、同級生だった風見章とともに、東京朝日新聞を発行していた日報社に入社しました。大正9年から衆議院議員に連続して8回当選を果たしました。中野正剛の演説は名演説で、どこでも超満員だったようです。
昭和4年には浜口内閣の逓信政務次官となり、同11年に東方会を結成して南進論を唱えました。戦時下、独裁色を強める東條英機首相に反発し、痛烈な批判を行いました。その結果、同18年に警視庁特高部に逮捕されました。このことは「強引すぎる」として世間の反発を買い2か月ほどで釈放されましたが、その後まもなく割腹自殺を図り死去しました。自ら命を絶った明確な理由は今もわかっていません。

松本治一郎

松本治一郎は、部落解放の父と呼ばれた日本の政治家です。
明治20年6月18日に福岡で誕生した松本治一郎は、「私は被圧迫部落の貧農の子として生まれた」と語っているように決して裕福な暮らしはしていませんでした。父である次吉は、生活水準をあげるために、副業で履物の原材料となる桐の木や竹の皮を仕入れて売る仲買の仕事をして収入を得ていました。
そんな松本治一郎は、部落解放運動を草創期から指導し、部落解放同盟からは「部落解放の父」と呼ばれていました。
明治47年の新憲法下初の参議院選挙では、全国区から第4位で当選し、初代参議院副議長に選出されました。

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