西日本シティ銀行は、地域の活性化や豊かな地域社会づくりに取り組んでいます。また、関連財団を通じ、文化から国際交流までさらに幅広い活動を実践しています。地元の歴史や文化の伝承も、その取組みのひとつです。
西日本シティ銀行の前身である福岡相互銀行が1979年に発行した小冊子「博多に強くなろう」「北九州に強くなろう」。当時、「地域の歴史や文化について自ら学ぼう、そして多くの人にも知ってもらおう」という思いから、さまざまなテーマで専門家や郷土史家による座談会が開催されました。
その後、この冊子の発行は、合併によって誕生した新生・西日本シティ銀行に引き継がれ、2008年(平成30年)には100号を迎えました。近現代のテーマでは直接の関係者による証言もあり、貴重な史料といえます。
この記事では、そんな「博多に強くなろう」の中から人物に焦点を当てます。各人物の生きざまが躍動的に綴られた対談記事へのリンクも併せて掲載していますので、ぜひ当時の貴重な情報にも触れてみてください。
小島与一
小島与一は博多人形師です。
明治19年8月18日、福岡市で誕生した小島与一は小学校卒業後、日本画家の上田鉄耕に師事しました。その後、博多人形師の白水六三郎に入門し、「名人与一」と呼ばれ、数々の名作を世に残しました。
ヘラをほとんど使わず、親指だけで成形していったという製作スタイルやその早さ、そして何より、博多人形特有の「美人もの」「歌舞伎もの」「能もの」といった数々のモチーフのどんなものでも作ることができたというのが、小島与一が傑作していると言われる理由です。
母里太兵衛
母里太兵衛は、黒田節のモデルとなった人物です。黒田節は、黒田長政の家臣「母里太兵衛」のある逸話を唄にしたものだと言われています。
「もり」という読みから江戸幕府の文書などに「毛利」と誤記され、実際に一時期「毛利」と改姓したため毛利但馬、毛利太兵衛と表記されることも多いとか。
弘治2年に誕生した母里太兵衛は、黒田孝高・長政につかえ、先手大将をつとめました。黒田24騎の中でも特に重用された黒田8虎の一人です。
母里太兵衛は朝鮮出兵、関ケ原の戦いなどに従軍し、のちに嘉麻郡大隈城の城主となりました。
明石元二郎
明石基次郎は福岡出身の陸軍大将です。
元治元年9月1日に福岡藩士族の子として誕生した明石元二郎は、明治16年陸軍士官学校、同22年陸軍大学校を卒業しました。
明治35年、日露戦争が始まる前々年頃からロシアの日本への対応を調査したり、ロシア国内の革命派に資金援助をして国内のかく乱を図ったりと、いわゆるスパイ活動を行っていました。
明治37年日露戦争では秘密工作でロシア革命を支援して敵国の背後を揺さぶり、日本の勝利の影の立役者となりました。
釜屋惣右衛門
釜屋惣右衛門は、江戸時代の中期から幕末にかけて莫大な富を蓄えた博多の豪商です。
釜屋という屋号が表すとおり、もともとは金物類の販売者です。
釜屋惣右衛門は「釜惣」を名乗り、鉄の問屋と、櫨蝋(はぜろう)の製造・販売で利益をあげました。島井宗室、神屋宗湛、大賀宗九の「博多3傑」の影に埋もれてきた、もうひとりの博多の豪商です。
釜屋という屋号で博多のお店のなかで3番目に多い、126軒を持っている実力ナンバーワンの商人です。
緒方竹虎
緒方竹虎は、朝日新聞社副社長を務めた政治家です。
明治21年1月30日山形県で誕生した緒方竹虎は、4歳の時に父の書記官の転任で福岡県に移り、小学校から中学校まで無遅刻・無欠席・無早退を通したとか。
そんな緒方竹虎は、早稲田大学卒業し明治44年に朝日新聞社に入社して政治部記者となりました。昭和18年には若くして副社長に就任しました。この間、二・二六事件の際には同社を襲った反乱軍と対決した話は有名になりました。戦争末期の昭和19年に退社して入閣し、戦後追放され追放解除後は吉田内閣で要務を歴任しました。
伊藤小左衛門
伊藤小左衛門は、江戸時代初期に活躍した博多の豪商です。
天保14年5月18日に誕生した伊藤小左衛門は、大賀宗伯とともに福岡藩主黒田氏の御用商人となり、長崎代官の末次平蔵や西村隼人・大賀九郎左衛門ら商人達とともに、黒田氏に代わって海外との貿易活動を行いました。
しかし、寛文7年柳川領にあった平左衛門が、伊右衛門が対馬の小茂田勘左衛門と共謀して、武具を朝鮮に密売したという訴えを柳川藩当局にしたことから、伊藤小左衛門の密貿易が発覚しました。
密貿易の中心人物が伊藤小左衛門であり、伊藤小左衛門と浅見七左衛門の2人は磔刑となり、40数人の者が斬首・獄門などの死刑、同じく40数人が在所からの追放に処せられました。
児島善三郎
児島善三郎は、独立美術協会の創設者のひとりとして活躍した福岡出身の洋画家です。
明治26年2月13日に誕生した児島善三郎は、大正2年長崎医専薬学科を中退して上京し、岡田三郎助の指導する本郷洋画研究所に籍を置いたものの受験に失敗し、以後フランスに留学し独学をしました。
二科会会員を経て独立美術協会の結成に参加しました。豊かな色彩と豪快なフォルムを用いて、日本画と洋画を折衷した装飾性に富む画風を確立させました。
朝雲、朝堂
山崎朝雲、冨永朝堂は博多出身の著名な彫刻家です。
慶応3年2月17日に博多の陶工の家に誕生した山崎朝雲は、明治28年の第4回内国勧業博覧会に出品した「養老の孝子」が高村光雲に認められ弟子となりました。その後、米原雲海らと日本彫刻会を結成しました。木彫を手がけ、日本木彫の伝統を伝えながらも新生面を開きました。
明治30年福岡の家具製造業の子として誕生した冨永朝堂は、大正4年に上京して山崎朝雲に入門しました。
代表作「谷風」により日本木彫界に確固たる地位を築き、昭和19年には太宰府市の観世音寺の地にアトリエを構えて自由な創作活動を展開しました。そして昭和50年に西日本文化賞を受賞しました。
- 歴史