西日本シティ銀行は、地域の活性化や豊かな地域社会づくりに取り組んでいます。また、関連財団を通じ、文化から国際交流までさらに幅広い活動を実践しています。地元の歴史や文化の伝承も、その取組みのひとつです。
西日本シティ銀行の前身である福岡相互銀行が1979年に発行した小冊子「博多に強くなろう」「北九州に強くなろう」。当時、「地域の歴史や文化について自ら学ぼう、そして多くの人にも知ってもらおう」という思いから、さまざまなテーマで専門家や郷土史家による座談会が開催されました。
その後、この冊子の発行は、合併によって誕生した新生・西日本シティ銀行に引き継がれ、2008年(平成30年)には100号を迎えました。近現代のテーマでは直接の関係者による証言もあり、貴重な史料といえます。
この記事では、そんな「博多に強くなろう」の中から人物に焦点を当てます。各人物の生きざまが躍動的に綴られた対談記事へのリンクも併せて掲載していますので、ぜひ当時の貴重な情報にも触れてみてください。
渡辺与八郎
渡辺与八郎は、地名「渡辺通」にその名を残した人物です。
慶応2年5月1日、渡辺與一の長男として博多上西町に誕生した渡辺与八郎は、祖父が始めた呉服太物屋「紙與」を経営していました。
「町の繁栄と発展のために、道と橋をつくることは自分の使命」と信じた渡辺与八郎は、私財を投じて当時の福岡市および近隣村を巡回する道路を開いて、博多電気軌道(のち西鉄福岡市線循環線)を開業しました。開業後まもなく奇病により急死しますが、今もなお私たちはさまざまな場面でその恩恵に預かっています。
黒田如水と長政
黒田如水は、兵庫県姫路城で誕生しました。豊臣秀吉の軍師として活躍し、九州征伐で恩賞を受け豊前国の6郡を与えられ、播磨国から豊前国へ移ります。
如水の子の長政は戦国三英傑である「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」に仕えた人物です。黒田長政は、関ケ原の戦いで戦功を上げ、ついには52万石の領土を持つ初代福岡藩主になりました。
黒田如水・長政親子は筑前国へ移り、福岡城を築城します。築城のプロ如水と勇将長政親子によって、城下町「福岡」と古くからの商人の町「博多」という現在の福岡市にも通じる双子都市の性格が作られたと言えます。
なお、御鷹屋敷は如水が晩年を過ごした所で、現在は「牡丹芍楽園」として親しまれています。
仙厓(せんがい)さん
仙厓義梵(せんがいきぼん)は、日本最初の禅寺である聖福寺の住職を務めた禅僧です。
寛延3年、農民井藤甚八の子として誕生した仙厓義梵は、親しみやすい書画を通して禅の教えをわかりやすく伝えたことから「博多の仙厓さん」と呼ばれ人々に慕われました。
39歳のときから博多の聖福寺の岩盤紹適の法嗣となり、住井を23年務め、88歳で遷化するまでに、多くの洒脱な絵画(禅画)を残しました。本格的に絵を描き始めたのは40代後半になってからと見られています。
83歳の時、庭に「絶筆の碑(いしぶみ)」を建て断筆宣言をしましたが結局やめられず、没年まで作品は残っています。
広田弘毅
広田弘毅は福岡県出身者で初めて総理大臣になった人物です。
明治11年2月14日、福岡市で石材店を営む広田徳平の息子として誕生した広田弘毅は、大名小学校、中学修猷館、第一高等学校、東京大学へと進み、外務省に入省します。
外務省に入省した広田弘毅は駐ソ連大使や外務大臣を経て、昭和11年3月に2.26事件の後を受ける形で総理大臣に就任しますが、軍部の横暴に抗しきれず翌12年1月23日に総辞任しました。
福岡市美術館付近にある護国神社大鳥居前駐車場の横には、広田弘毅総理大臣の銅像が建っています。
川上音二郎
川上音二郎は「オッペケペー節」で一世を風靡した、明治時代の演劇界で活躍した人物です。
文久4年1月1日に博多で誕生した川上音二郎は、14歳で上京し自由党壮士となり自由童子を名のっていました。自由民権運動に対する取締りが厳しくなると大阪で落語家佳文之助に入門し、浮世亭○○と名のり、時事を風刺したオッケペケー節で人気を得ました。
明治44年、急性腹膜炎により死去しました。「汽車が眺められるところに」という川上音二郎の遺言によって、当時博多駅が近くに合った承天寺に葬られました。
野村望東尼
野村望東尼は、維新の母と呼ばれた女流勤皇歌人です。
文化3年9月6日、福岡藩士・浦野重右衛門勝幸の三女として誕生した野村望東尼は、13歳の時に林五左衛門家に行儀見習いとして仕えて、学門や裁縫手芸など多芸な趣味を覚えました。17歳のときに一度結婚するも離婚し、24歳で再び野村新三郎貞貫のもとに後妻として嫁ぎました。
野村望東尼は、病に倒れた高杉晋作の最期を看取る事となり、晋作が「おもしろきこともなき世をおもしろく」と詠じて力尽きた際に「すみなすものはこころなりけり」と下の句を続けて読んだことが有名になりました。
貝原益軒
貝原益軒は、日本のアリストテレスと言われた江戸時代の大学者です。
寛永7年11月14日、福岡県で生まれ育った貝原益軒は幼時に父の転職で各地に転居し民間で生活した経験が「民生日用の学」を志す契機となりました。当初、黒田藩に仕えていましたが藩主の怒りにふれ、数年間の浪人生活を余儀なくされました。
その後、京都に留学し本草学や朱子学を学び、藩に戻ってからは藩主や藩士に儒書を講義しつつ、「黒田家譜」や「筑前国続風土記」を編集したり、朝鮮通信使の対応なども行いました。自然文学においては「大和本草」を発行しました。
更に、教訓書「養生訓」「和俗童子訓」を執筆し独自の精神修養法を示しました。
黒田長溥
黒田長溥は、藩校修猷館を再興させたことで知られる幕末の福岡藩主です。
文化8年3月1日、薩摩藩主島津重豪の9男として誕生した黒田長溥は、特に学問奨励に心を用いて、洋学導入に努めて、藩の子弟の教育に終生絶大な熱情を傾けました。世界情勢についても高い見識を持っており、開国を主張していました。
万延1年の桜田門外の変前後には藩内勤王党との調整が困難となり、月形洗蔵や海津幸一らを弾圧し、福岡藩は維新回天の業に大きく後れをとることとなりました。
そして、西南戦争の際には政府と島津家との仲介調停に当たりました。