【飛翔対談】パールドライ・三宅敏彦氏 ❘ 生活価格で地域一番店に

*はじめに:本記事は、株式会社NCBリサーチ&コンサルティングが発行する経営情報誌「飛翔」2017年7月号掲載の対談記事を、発行元の許諾のもと転載公開するものです。以下、本文の記載内容(肩書きや代表者名、商品・サービス名等)はインタビュー当時のものである旨、ご了承ください。

話し手

株式会社パールドライ
三宅敏彦(みやけ・としひこ)代表取締役社長

昭和14年、長崎市稲佐町生まれ。原爆投下1週間前まで当地で暮らす。17歳でクリーニング店の住み込みとして働き始め、20歳で決意して24歳で独立を決行。趣味においてもかなりののぼせもんで、オリンピックやプロ野球へののめり込みは筋金入り、全盛期の尾崎紀世彦に憧れ、今も真似て髭をたくわえる。

株式会社パールドライ  三宅敏彦代表取締役社長

聞き手

株式会社NCBリサーチ&コンサルティング代表取締役社長
光冨彰

生活価格で地域一番店に

60年前、たった1人、バイク1台でスタートしたクリーニング店・パールドライ。
今では、全国に約1万店舗を持つ組織・ホワイト急便の長崎県南地域を管轄している。
それを支えたのは、既成概念にとらわれない自由な発想だった。
いつも大きな目標を掲げ、共に働く仲間や社員に恵まれチャンスにも後押しされて、着実に目標をクリアしてきた。
そして今、利用しやすい生活価格で、市場調査に基づく地域一番店として帽子から靴まで何でもクリーニングしている。クリーニング業としてやることはまだまだあると、着々と準備を進める三宅敏彦社長にお話を伺う。

出発はワンちゃんクリーニング

光富● 昭和39年にご創業ですが、その前はクリーニング店に住み込みで働かれていたとのこと。ご自分のお店を持つことは、長年の夢だったのでしょうね。

三宅● はい。東京オリンピックに合わせて、昭和39年10月10日に創業しました。それ以前からオリンピックに合わせて独立すると仲間に言っていたので、「できんことをホラを吹くな」と笑われていました。
 創業日前日、友達が5、6人集まって祝宴を開いてくれましたが、その時にも、「オリンピックを絶対に見に行く」、「大リーグも絶対に見に行く」、そして「長崎一のクリーニング屋になる」と、何の根拠もないのに言っていましたね(笑)。たった1人、バイク1台で始めた商売なのですが。

光富● いわゆる町のクリーニング屋さんとしてお1人でスタートされたのですか。

三宅● はい。当時多かったさんちゃんクリーニングではなく、私の場合はワンちゃんクリーニング。1日目に注文を取って回って、翌日洗って仕上げ、3日目に配達と、だいたい3日サイクルでした。
 東京オリンピックは私の原点ですから、記念硬貨を財布に入れて常に持ち歩いています。傲(おご)り高ぶって調子に乗った時など、「お前、初心を思い出せよ」と、取り出して手にします。

記念硬貨

光富● 自分を戒める意味もあるんですね。

三宅● これを見ると、その時の気持ちにポーンと戻ります。当時は、とにかく仕事をすることが喜びで、ものすごくウキウキしていました。

光富● しかし、ご苦労も多かったのではありませんか。

三宅● 苦労したという記憶はあまりありません。まったく知らないお宅に御用聞きに回るのですが、大事なスーツを預けてくださいますし、何より、1日の稼ぎが多くなっていくのが楽しみでした。
 家賃や月賦の機械代など1カ月に支払う金額を日割りで計算し、支払い先別の空き缶を置いておいて、仕事を終えたらその金額を缶に入れていくんです。そして月末に缶からお金を出して支払います。簡単明瞭、まったく経理的な苦労もしていません。

光富● 缶に入れずに手元に残ったのが、その日の儲けということですね。

三宅● そうです。しかし、空き缶に入れるお金が足りない日は晩飯抜きですよ。でもそれが、「明日、がんばらんと飯が食えんぞ」と、自分のバネになるわけです。その日に余るお金が増えていくのが喜びであり、楽しみでした。

光富● 最初はどこで始められたのですか。

三宅● 長崎市の北の方になりますが、路面電車の終点、赤迫電停近くの若竹町の市場前です。

光富● 周辺には同業者はなかったのですか。

三宅● さんちゃんクリーニングがいっぱいありました。なので、お客様を開拓するために突拍子もないこともやりましたよ。そのころ子どもに大人気だったキャラメルを菓子問屋から箱で買って、営業に行った先で遊んでいる子どもたちに配るんです。次に訪ねると、「ぼくの服をクリーニングに出して」と子どもたちが泣くと、親御さんから聞かされました。
 とにかく仕事に大きな夢があったので、不安よりも喜びの方が大きかったですね。

対談する三宅氏

仲間6人で共同工場

光富● それからだんだん事業を広げられたわけですね。

三宅● 仕事仲間に共同で工場をつくろうと、ずっと呼びかけていました。きっかけは、大学の経済学部に行った友人に誘われて聞いた大学の講義です。農業の話でした。
 アメリカは広大な土地でトラクターを使って農業をする。日本は猫の額のような農地なのに1軒に1台、みんなトラクターを買う。10人分の土地が1台で賄えるのにまったく無駄なことで、10人で1台使えば別の機械も入れられて合理的なはず。そういうことは全ての日本の企業に言える。このような内容でした。
 自分に置き換えれば、我々も1軒に1台仕上げ機械を持っているけれど、作業は2時間程度で終わって、ほとんど遊ばせています。みんなで組めば合理的です。そういって修行していた店のおやじさんを一所懸命説き伏せたところ、自分の所を辞めて独立した人を集めて、「お前たちはどう思うか」と話を切り出してくれたのです。すると、いっしょにやろうという人が6人が集まりました。そこで、名目上はおやじさんを社長にして、全員同じ地位で同額出資して共同工場をつくりました。独立した2年半後のことです。

光富● それまで自分のやり方で仕事をしてきた6人が役員として一緒に働くのですから、簡単に行かないこともあったのでは。

三宅● 最初に8項目ほどの約束事を決めました。けれど、これが守れず、1年目に2人辞め、10年後にはおやじさんが亡くなったため私が社長を引き受け、翌年にまた1人辞め、最後には私ひとりになりました。しかし、結果的には自分の思うようにやり通しましたね。

光富● 新しく役員を入れることは考えられなかったのですか。

三宅● はい。というのは、始めて1年目に弟が入って、私の側近として現場をこなしてくれ、良い社員がどんどん集まって来ていたからです。

共同仕入れと取次店展開

光富● 思うような経営が十分にできていたとは、うらやましいですね。

三宅● ただ、世の中は波乱万丈です。昭和48年のオイルショックでは、ボイラーで使う重油が手に入らず、灯油を使いました。原材料費も値上がりが続き、仕事自体もおもしろくなくなって、どん底でした。そんな時、偶然ですが、すばらしい出会いが重なって、昭和52年に九州のクリーニング経営者の同志18社で「日本さわやかグループ」を立ち上げました。これが「ホワイト急便」です。資材を直接メーカーから共同で仕入れ、取次店システムを取り入れました。
 私はそれまでやっていたホテルなどのクリーニングから撤退し、100%取次店の展開に切り替えました。その後は「ホワイト急便」の店舗数も順調に増えていきました。
 そんな時、アメリカのコダックが、業務提携したいと言ってきたのです。1988(昭和63)年のソウルオリンピックの前のことです。当時、グループの店舗は沖縄から北海道までをカバーし、5000店を超えていました。一方、昭和56年に日本に進出したコダックは5、6%シェアだったのです。しかし提携後には、すぐに10%に跳ね上がったようです。

光富● クリーニング取次店で現像したのですか。

三宅● 新地店に現像機を設置し、全店舗で現像の注文を受け、フィルムも販売しました。
 私個人にとってラッキーだったのは、コダックがソウルオリンピックのスポンサーだったことです。なんと、我々をオリンピックに招待してくれるというのです。内心飛び上がって喜びました。よし、ここから念願の私のオリンピックが始まるぞと(笑)。

光富● 永年の夢が叶ったわけですね。

三宅● そうです。「よし、次も行く!」と有頂天でした。売上の目標は全くないくせに、ただ、オリンピックに行くぞって(笑)。 
 しかし、オリンピックに行くためには、自分が留守にしてもきちんと回っていくように人を育てておかなければいけません。社員には「俺はオリンピックに行くためにがんばるけん、お前たちはしっかりついて来いよ」などと言っていました。2回目からは業績を上げて、堂々と行けるようになりました。

光富● ずっと行かれているのですか。

三宅● はい。ソウル、バルセロナ、アトランタ、シドニー、アテネ、北京、ロンドン。ブラジルだけはちょっと行く気がしませんでした。

光富● 次はいよいよ東京です。楽しみですね。

大村ドライブスルー店

突拍子もないアイデア続出

光富● 常に新しいことを考えて実行されているのですね。

三宅● いろいろやってみて、やめたこともありますし、継続していることもあります。65歳以上の10%割引は継続していることの1つです。また、小学入学前の子ども服は一律1点150円ということもしています。
 これを始めたきっかけは、偶然耳にしたお母さんたちの話です。ある日、私が喫茶店に入ると、子ども連れの若いお母さんたち5、6人が、雑談しながらにぎやかにコーヒーを飲んでいました。その中の1人が「この子のコートのクリーニングに450円もとるとよ」と言いました。「1、2年しか着らんとに、なんでクリーニングに出すんね。チョチョっと洗えばよかろうもん」、「私はそげんとられたことはなか」、「どこに出しよると」、「ホワイト急便てハートマークがあるやろ。あそこは安いよ」と当社の名前が出たんです。
 子ども服はそう長くは着ません。少しでもお客様に喜んでいただければと考え、「子ども服は一律150円にする」と社員に宣言したんです。

光富● みなさんビックリされたでしょう。

三宅● 何をまた言い出したのかと(笑)。でも、すぐに実行しました。これでは利益をあげなくていいのです。お母さんたちは自分たちの服も一緒に持ってきてくれますからね。

光富● 今はウオッシャブルスーツや家で洗えるダウンなども増えてきて、クリーニングに出す点数が減っているような気がします。

三宅● そうですね。特に若い世代がクリーニング離れしています。もともとクリーニングするような服を着ないということもありますし、高性能な家庭用洗濯機が次々に開発され、洗剤も「ご家庭で水洗いできます」と毎日何回もテレビで言っています。それに加えて、一番のお客さまだった団塊世代の方も、リタイアするとクリーニングに出しません。減っていくのは当たり前ですね。

光富● 市場は狭くなっているのですね。

三宅● 20年前が最盛期で、今はその52%ぐらいです。逆に当時はケータイ電話は少なかったのですが、日経新聞によると、現在は1所帯あたり月1万69800も支出しているそうです。

光富● 以前はなかった支出ですね。

三宅● その増えた支出のためにどこを削ったのかというと、日常的なクリーニングや衣類でしょう。クリーニングがいらない低価格なファストファッションが売れています。時代の流れですね。

光富● ますます人がやらないことを考えていかないといけませんね。

三宅● そこで頭をひねるのが、また楽しいんです。今は、スニーカー、革靴、バッグのクリーニングも手掛けています。

パールドライ矢上店とサンキューカット

光富● 洗える物は何でも洗うという感じですね。

三宅● はい。「人間以外は何でも洗え」と、いつも社員に言っています。そして技術は先進国に学べです。
 スニーカーのクリーニングは韓国がすごいですよ。向こうはスーツにスニーカーですからね。洗濯屋はクリーニングしたものをスニーカーボックスに入れて店頭にきれいに飾っています。
 スニーカーのクリーニングは初めてで、どうなるかわからなかったので、20センチ未満は250円、20センチ以上は350円で始めました。

光富● 感覚的に安いと感じます。

三宅● そうでしょう。1年間やって料金を見直し、20センチ未満を350円、20センチ以上を500円にしたんですが、点数はあまり減りませんでした。
 一方、革靴は少々手間がかかります。靴墨を塗るのではなく、塗料を全部削って染色した上に靴墨を塗ります。ですから綺麗になりますよ。

光富● それはプロに任せないと無理ですね。結構高いんでしょう。

三宅●クリーニングだけなら2000円台、補修まで入れると5000円ぐらいです。

光富● 売上としてはどれくらいですか。

三宅● 1年目は100万円ちょっと、2年目から200万円台になりました。
 バックはルイ・ヴィトンやシャネルなど一流メーカーのものです。イギリスは古い物を修理して大事に使う習慣がありますから、イギリス流の技術研修を受けて始めました。

光富● 衣類だけではないのですね。

三宅● はい、いろいろです。今研究しているのは椅子で、すでに機械も揃えてテスト段階です。

光富● 身に着けるものだけでなく、家具まで洗う。すごいです。でも、アイデアマンの社長についていく社員さんは大変ですね。

三宅● みんなに「話がある」と言うと、今度は何を言い出すのか、という感じです(笑)。

光富● お若い時からそうだったのですか。

三宅● 私は既成概念にとらわれるのが大嫌いなので、いつも「それはそうやろうけど、昨日までのことやけん」という感じです。

光富● 自分で限界をつくらない、それが柔軟な発想の秘訣かもしれませんね。

三宅● 「色がはげた時は弁償すればよか」と、失敗しても私は怒りません。上手くいけば、その技術が次に生かせますから。

目標を持つことの大事さ

光富● 社長がそういう姿勢であれば、挑戦しようという雰囲気が社内にあるでしょうね。

三宅● 失敗を恐れてチャレンジしないのはダメです。小さなことでもいい、目標を持つのは大事なことです。

光富● どんどん目標を叶えたら、もっと目標をつくらないといけなくなりますね。

三宅● 笑われるような目標もいっぱいあるんですよ。例えば、イチローと握手する(笑)。でも、これはだいぶ接近はしてるんです。名古屋のイチローの実家の横にイチロー記念館がありますが、そこの支配人が私のイチロー・コレクションに驚かれるほどです。イチローがシアトルに移った時は、翌年、私もシアトルまで応援に行きました。

光富● まるで追っかけですね(笑)。

三宅● できれば現役時代に会ってみたいですね。元広島東洋カープの衣笠祥雄さんとは40年ぐらいお付き合いしています。

光富● 筋金入りの追っかけですね(笑)。

三宅● 以前、業界グループで経営指導をした時は、できるだけカープの試合日程に合わせて名古屋、大阪、東京と出張し、ナイターを見た後、衣笠さんといっしょに飲みに行ったり、食事をしたりしていました。

光富● それは、趣味と実益を兼ねた出張ですね。

三宅● そのおかげで、長崎の三和町の元宮公園につくったグラウンドを衣笠球場という名前ににしたいということになった時、三和町から私に相談がありました。すぐに衣笠さんに電話すると、「ああ、いいよ」って、「竣工式の9月15日には来てほしい」と畳み掛けると、それも即OKで、みんなビックリしていました。
 彼は人間性がいいので、長くお付き合いできます。今は長崎出身のプロ野球の選手たちと毎年年末に激励会をやってます。

光富● 野球がお好きなんですね。特にイチロー選手。何にそれほど引きつけられるのですか。

三宅● 彼は哲学を持っています。シアトルにいた時、ロッカールームの壁に「自分たちはグラウンドの中でいろんなルールのもとにやっている。しかし、そのルールは町に出た時にもある。町のルールも、グラウンドと同じように守るべきだ。自分をダメにするのは自分だし、自分を高めるのも自分自身だ」といったようなことが英語で書いてあったそうです。それはイチローがメモしていた言葉を、監督がロッカールームに貼ったんだということでした。

 彼はまた「自分は特別なトレーニングをやっているのではない。誰でもできることを、誰も真似できないくらいやっているだけだ」とも言っています。オリックスに入団当時、「お前のスイングは、スピードは緩いし楕円形だ。ダウンスイングで、毎日100回素振りしろ」とコーチに言われ、「私は中学校から、毎日1000回振っています」と応えたそうです。すでにコーチを越えていたんですね。
 こんな具合に野球の話をしだしたら、私は評論家になってしまいます。社員は、社長の解説がまた始まった、と思うわけです(笑)。

新しい旋風の予感

三宅● ところで、うちの最近のトップニュースなんですが、イオンタウン長与の中にオープンしたばかりの店舗が、1週間で驚異的な売り上げを記録し、工場がパンク状態です。私も60年間クリーニング屋をやっていますけど、こんな店舗ができると、ものすごく楽しいですね。

イオンタウン長与

光富● 予想をはるかに超えていたんですか。

三宅● 3倍以上ですね。会社ぐるみで右往左往しています。

光富● オープニングキャンペーンをされたのですか。

三宅● もちろん、安い料金に設定しました。イオンはどの店舗もクリーニング店を入れていますが、あんなに並んでいるのは初めて見たと、本部の方も驚いていました。忙し過ぎて社員の方は不服顔ですけど……(笑)。

光富● 今クリーニング店は取次店からテナントの時代へと変化していますからね。これからも斬新なアイデアで業界に新風を吹き込んでください。本日はお忙しいところ、ありがとうございました。

会社概要

名称:株式会社 パールドライ(http://www.pearldry.jp/

資本金:1,000万円

創業:昭和39年10月10日(1964年)

本社:長崎県長崎市愛宕3-19-6


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