【飛翔対談】山口油屋福太郎・山口毅氏|食の幸で次の100年を創る

*はじめに:本記事は、株式会社NCBリサーチ&コンサルティングが発行する経営情報誌「飛翔」2018年7・8月号掲載の対談記事を、発行元の許諾のもと転載公開するものです。以下、本文の記載内容(肩書きや代表者名、商品・サービス名等)はインタビュー当時のものである旨、ご了承ください。

話し手

株式会社山口油屋福太郎
山口毅(やまぐち・たけし)代表取締役社長

昭和11年、福岡市生まれ。昭和35年、総理府の命により日本青年海外派遣団の一員に選ばれ米国、中南米を3ヵ月間派遣視察。昭和41年、山口油屋に就職。昭和59年に代表取締役社長に就任。現在に至る。平成17年、春の褒章黄綬褒章受章。平成30年、公益財団法人経営者顕彰財団が選定する第45回「経営者賞」を受賞。福岡県食品産業厚生年金基金理事長。好きな言葉は「人は人を浴びて人になる」。

株式会社山口油屋福太郎山口毅(やまぐち・たけし)代表取締役社長

聞き手

株式会社NCBリサーチ&コンサルティング代表取締役社長
石田保之


業務用食材卸から
「味のめんたい福太郎」、新たな博多土産となった「めんべい」の製造販売
飲食レストランビル、温浴施設の運営まで
「食」の総合企業グループとして地場経済を牽引している山口油屋福太郎。
日本の近代とともに始まったその歩みは、今年4月、110年を迎えた。
廃校を利用して工場をオープンし、地域活性化や雇用拡大に貢献、
地域の特産物とコラボレーションした「ご当地めんべい」を次々に開発するなど
地方創生の起点となるべく、さらなる挑戦を続けている。
いつも夢を持ち、その実現を目指している山口社長にお話を伺う。

ビジネスのおもしろさを知る

石田● このたびは経営者賞受賞(経営者顕彰財団主催)おめでとうございます。私も表彰式に参加しましたが、社長のご挨拶は、パワフルかつざっくばらんで、心に刻まれるお話でした。

山口● 何しろ私はいつも、出たとこ勝負をしていますから。

石田● 御年82歳ですね。そして今年は創業110年を迎えられました。

山口● 4月1日が110周年でした。

石田 ●よく会社の平均寿命は30年と言いますが、そういう中にあって1世紀を超えてなお成長し続けるのは、すばらしいことです。今日はその要諦をお聞きしたいと思います。

表彰式のご挨拶を伺っていて、社長は根っからの商売人と私には思えました。いつごろ商売のおもしろさに目覚められたのですか。

山口● 小学1年生から夏休みと冬休みにおばの酒店に手伝いに行っていました。角打ちのお酒をつぐ時にコップからちょっとこぼれるくらい山盛りに入れると、みんな喜びます。人の喜ぶ顔を見る楽しさやうれしさを知りましたね。

また、中学の夏休みは映画を見てアイスキャンディーを食べるのが楽しみでした。2年の時に「これを田舎で売ったらいいんじゃないか」と思いつき、交渉して少し安くしてもらって、300本を売りました。1日900円の儲けです。今で言うと5万円ぐらいかな。夏休みは雨が降らないかぎり毎日900円儲かるんです。当時は10円札でしたので、それを畳の下に置いていたら、畳が盛り上がってきました。それを見て、こういうことが将来できたらいいなと思いました。で、商売人になろうと、福岡商業(現・福翔高等学校)へ入学したのです。

石田● 出光佐三氏や岩田屋の中牟田喜兵衛氏など多くの著名な経営者を輩出した学校ですね。

山口● はい。当時、早良区内野に住んでいたので、学校のある博多区堅粕へ毎日片道20キロを自転車で通いました。朝6時半に家を出て、授業が終わって3時半からバスケット、夕方7時に学校を出て、家につくのは夜9時。あとは寝るだけです。

石田● 若いとはいえ、すごい体力ですね。バスケットはいつから始められたのですか。

山口 ●小学校6年生ぐらいからです。中学も高校もバスケット部です。ちょっとうまかったんでしょう、東京の大学から授業料を免除するから来てくれと誘われました。

石田● 今で言う特待生ですか。

山口● はい。それで行ってみたら部員が100人ぐらいいて、その中で14人に入ったら特待生になれるとのこと。196センチの人とかアジア大会の選手とか、そういう人ばっかりでした。

石田● お話を伺っていると、生まれつき商才をお持ちだったようですが、その天賦の才を伸ばしたのが、昭和34年、24歳の時に日本青年海外派遣団の一員としてアメリカに行かれた体験ですね。そのことについて伺えますか。

山口● 大学生の時アメリカの豊かさを知り、どうしても自分の目で見てみたくなりました。寝ても覚めてもアメリカでしたね。それで、どうしたら行けるのか外務省に聞くと、身元保証人と身元引受人が必要だというのです。

そこで、アメリカの新聞社10社くらいに手紙を出したんです。「資本主義経済の発達したアメリカを見たいので、身元引受人になってもらいたい」と。

対談する山口氏

石田● それは、また大胆な。返事は来ましたか。

山口● 来ましたが、どこもほぼ同じ内容で、「黄色人種は、特別な技術者か招聘する大学の試験の合格者しか受け入れられない。しかし、あなたの志は近い将来実現するだろう」と。

石田● 今では考えられない話ですが、当時の日本の置かれた状況がわかりますね。

山口● その後、福岡に帰ってきたものの、アメリカへの思いが断ち切れません。そんなある日、新聞で小さな記事を見つけたんです。

皇太子殿下と美智子様のご成婚があり、世界各国からお二人への招待状がたくさん届いたそうで、招待状を送ってくれた国に日本の青年を派遣することにし、全国から90名を選考する、とありました。

私はすぐに県庁に行って、ぜひ行かせてほしいと頼みました。詳しい話を聞いたら、各市町村に候補を出してもらい、筆記試験や論文、面接をして1名か2名を推薦するとのことでした。

石田● その難関を見事突破し、アメリカに行かれることになったのですね。

山口● はい。中牟田喜兵衛さんが、私がアメリカに行くことを知って餞別をくださったのです。そして卒業生が選ばれたのはすばらしいと、出光佐三さんに電話をされたところ、ぜひ出光興産本社に寄ってくれということになりました。

当時、銀座にあった本社に行ったら、「日本政府もいいことをしますね」とおっしゃった後、「アメリカは物質文明で人々の心が非常に貧しくなっている」と言われるのです。その時の私には意味がわかりませんでした。当時の日本は、まだ物不足でしたからね。しかし出光さんは、その時に「いずれ日本もそうなる」と言われたのです。そして帰り際に「これは餞別だから持っていきなさい」と、分厚い封筒を手渡してくださいました。なんと中はお札。驚くほどの餞別が入っていました。

3カ月後、アメリカから帰国して、お礼と報告に出光興産に寄ったら「よかったら当社に来ないか」と誘ってくださったのです。しかし自分は商売をしようと思って福岡商業に行ったのだから、福岡に帰って将来は商売をしますと言ったんです。その後、東京に行くたびに山芋と卵のお土産を持っていきました。

家電のトップセールスマンに

石田● 福岡に帰ってきてからは、どうされましたか。

山口● 日立の特約店の会社に入社しました。そこでの私の仕事は、電気屋をつくることだったんです。その後、日立家電に出向しました。

石田● 家庭電器の時代が到来すると見込んで、特約店を増やそうとされたのでしょうね。

山口● そうです。ある日、厳しい条件で業界でも有名な小売店が取引したいということで、私が担当することになりました。噂に違わず非常に難しい社長でしたが、毎日会ってじっくり話してみると、大きな可能性を秘めた人だと気づきました。次第に社長も私を信頼して、いろいろな企画を採用してくれるようになりました。

石田● 具体的にどんな提案をされたのですか。

山口● 最初は三角くじです。日立の商品を3000円買うとくじがひけ、テレビや洗濯機など日立の家電が当たるというもので、その商品は全部こちらから出します。これが大当たりし、2、3カ月後には、「来月も任せる。あんたのいいようにテレビを入れていい」と言ってもらえ、200台も300台も売れるようになったんです。

そのうちに、私は日立のトップセールスマンだということになり、横浜での幹部研修会に行くように言われました。大学教授やコンサルタントが今後の家電業界やアメリカのスーパーマーケット事情などをレクチャーします。

これから家電はどうなるかというレポートの中で、「日本はカラーテレビの時代になり、洗濯機も自動洗濯機が出るだろう」と書いたところ、コンサルタントが「それがどうしてわかるのか」とびっくりしていました。昭和36年ぐらいのことで、当時の白黒テレビの普及率が40%ぐらいでしょうか。

石田● 2年前にアメリカで学んだことが生きていますね。昭和36年といえば、テレビのカラー放送が始まり、テレビ・冷蔵庫・洗濯機が「3種の神器」と呼ばれるようになったころです。

妻の実家を継ぐ

石田● では、ご本業のことについてお聞かせいただけますか。今では業務用食材から味のめんたい福太郎、めんべい、レストラン、温浴施設と「食」の総合企業ですが、食用油の販売をされていた奥様のご実家を継がれたのが始まりですね。

山口● 今のキャナルシティ博多・イーストビルのあたりに店があり、周辺は一面菜種畑で、それを絞って、てんぷら油として売っていました。

戦後は統制で月給が4000円ぐらいの時に食用油1本が1000円。月給が40万円としたら油は10万円だったのです。

石田● ずいぶん高価ですね。利益率も高かったでしょうね。

山口● そうです。ところが、昭和30年代半ばにスーパーが出てきました。そのころは、当店から250円で仕入れた油を、食料品店は450円で売っていました。しかしスーパーは、同じ仕入値で280円で売るのです。そのうちに客寄せ商品として、仕入値より安い198円で売り始めたのです。そのころ妻と出会いました。

実は私は27歳の時に、「28歳で結婚をし、30歳で自分の店を出そう」と考えていたのです。それで、まず結婚式の会場を決めて1年後の11月3日に予約。そしてバスケット部の後輩に「結婚式の案内状を作ってほしい」と依頼したら、「誰と結婚するんですか」と聞くから、今から探すって言ったら、うちの従妹と会ってみないか、ということになって会ったのが、今の妻です。昭和40年に結婚し、翌年、山口油屋に入社しました。当時は5人の会社でしたよ。

石田● あらゆることが型破りですね。社長が入社されてから、卸の商品が増え、業容も広がりました。昭和47年には「味のめんたい福太郎」の製造・販売を始められていますが、メーカーになろうと思われた理由は何ですか。

山口● 卸はメーカーからの仕入値の変動に左右されるし、薄利です。常々、自社で製造・販売できる商品が欲しいと考えていました。そんな時にお土産で明太子をいただいたのです。その当時の明太子は唐辛子と塩分が強く、酒の肴や珍味として食べられていました。それを女性も子どもも食べられるお惣菜にしたのが「味のめんたい福太郎」です。

一方、卸の商品が増えたのは、昭和48年のオイルショックがきっかけです。当時、油の値段が乱高下する時期が続きました。その時に油だけの商売をしていていいのかと思い、油と一緒に配達できる、洗剤や割箸、味噌、醤油などの調味料も手がけるようになったのです。

味のめんたい・福太郎やめんべいを中心に商品を展開

石田● 翌49年は「狂乱物価」と言われるほどインフレがひどく、これをきっかけに高度経済成長も終わりましたね。

山口● しかし、昭和50年に新幹線が博多まで開通すると、明太子が全国的に知られるようになり、爆発的に売上が伸びました。いわしめんたいなどのめんたい関連商品も製造・販売し始め、平成19年には関連商品がお土産用の出荷量を抜きました。

石田● ところで、なぜめんたいに「福太郎」と名づけられたのですか。福岡だから「福」はわかるのですが、「太郎」は何でしょうか。

山口● わが家は父が茂太郎で息子が智太郎、太郎が多いのでつけました。

石田● めんたいも家族のようにかわいいのですね。

山口● 「味のめんたい福太郎」は商標登録しています。明太子業界で商標を取ったのは、当社が初めてなんです。

石田● 昭和59年には山口油屋福太郎に社名を変更され、社長に就任されました。

最近のヒットは「めんべい」ですね。いまや博多土産の新定番になりつつあります。どうやって誕生したのですか。

山口● めんたいは日持ちがしないので、めんたいを使った日持ちのするお土産を作ろうと考え、出来上がりました。国産ジャガイモの澱粉をベースに、めんたいやイカ、タコを混ぜて焼き上げ、タレを効かせました。具を練り込んでいるため割れやすいのですが、割れないように調合を変えると味が落ちます。味を優先し、割れるせんべいとして販売しています。

レストラン、温浴施設

いつも夢を持ち続ける

石田● 御社はバスケット部やソフトボール部の学生を多く採用されています。体育会系の若者は御社の仕事に向いている人が多いということですか。

山口● 外食産業の資材卸の仕事はきついですからね。体力は必要です。

平成8年に福岡市バスケットボール協会の会長になってほしいという依頼があったのです。ちょうど工場を造ろうとしていた時で、一番上の階に体育館をつくったんです。そしてその年、全国大会で4位になった九州産業大学の学生5人が入社し、福岡大学からも入ってきて、バスケット部ができました。

ソフトボール部は平成28年にできたチームです。添田町の県立田川商業高校跡地に建てた添田工場を拠点に、地元に溶け込んだチームを目指しています。今年、全国大会に行きました。

石田● 御社は経済産業省の「がんばる中小企業・小規模事業者300社」に選定されています。その理由が、廃校になった学校を買い取って工場や温浴施設に転用することで過疎化や雇用確保に貢献していること。また、その地域の特産品を入れる「めんべい」のコンセプトは応用が利き、長崎名産の鯛を練り込んだ「鯛めんべい」、北海道のほたてやチーズを練り込んだ「ほがじゃ」など、全国に展開可能なビジネスモデルを構築していること、この二つです。

さすがに着眼が鋭いですね。一般のサラリーマンにはできません。まずこれは売れるだろうという発想がないし、これがだめならあれと、頭の切り替えが難しいです。

山口● それは裕福だからでしょう。飯が食えなかったら考えます。明日会社がつぶれそうな場合は、一生懸命になるから考えつくわけです。

石田● ご謙遜されますが、簡単なことではありません。苦しい時もあったはずですが、成長し続けてこられました。

山口● 人間は三食食べますからね。

石田● それはそうですが、食に関するビジネスでもつぶれる会社はありますよ。

山口● それはおいしいものを作らないからです。

食品業界は10年で変わってきます。10歳年下の人とは食べるものが少し違うと感じませんか。たとえば、ここで私がピザを出したとします。若い人は昼ご飯だとは思う。しかし年輩の人はおやつだと思います。10歳で、それくらいの差があります。

今の日本人は、味の良し悪しがわかっています。おいしいと人に言いたくなり、口コミでお客さんが増えていきます。ですから、今よりももっとおいしいものを作ることが、一つの目標です。

石田● 社長は時代の変化に対応してどんどん新しいものにチャレンジされています。発想が豊かです。それが110年続く会社の最大の要因だろうと思います。

山口● これは、まだ発表段階ではないけれど、実現したら、ものすごくおもしろくなることを考えているんですよ。

石田● まだ新規事業を始めようとされているのですか。80を過ぎて夢を持ち、それを実現させようとされている、そのバイタリティーには感服します。

山口● 知り合いの女性が、よく当たると評判の占い師に、私がいくつまで働くか聞いてくれたんです。そしたら「96歳まで」って。

石田● 96歳まで……。新規事業の成功のお話をまた本誌に掲載させていただけることを願っております。本日はありがとうございました。

本社玄関前の記念碑と1階にある工場直売店

会社概要

名称:株式会社 山口油屋福太郎

資本金:1,000万円

創業:明治42年3月(1909年)

本社:福岡市博多区那珂6丁目27-16

福太郎

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