カルチャー

【九州流】絹に訊け。 ―古代日本史の舞台は福岡だった―

【九州流】絹に訊け。

*はじめに:本記事は、西日本シティ銀行が発行する地域の魅力を再発見する情報誌「九州流」2015年10月号掲載の記事を転載公開するものです。以下、本文の記載内容(肩書きや代表者名、商品・サービス名等)は発行当時のものである旨、ご了承ください。

話し手

シルク博物館元館長・小泉勝夫氏

1936年長野県生まれ。1959年信州大学繊維学部卒業。神奈川県内で長く養蚕技術指導と研究の後、平成9年から10年間、シルク博物館館長を務める。日本蚕糸関係の第一人者として知られる。

シルク博物館元館長小泉勝夫氏

古代史研究家・萱島伊都男氏

1945年福岡市生まれ。2004年から古代史の研究を始める。著書に『卑弥呼は福岡市付近にいた』(創英社/三省堂書店)他。故郷・福岡の魅力を古代史研究の視点から発信している。

古代史研究家萱島伊都男氏

稲作の伝来と共に幕を開けたとされる弥生時代。邪馬台国の所在地論争を筆頭に古代史の謎はいまだ解明されていない事柄も多い。いにしえよりアジアの玄関口として重要な役割を果たしたとされる福岡。これまであまり語られることのなかった〈絹〉の歴史を紐解くと、古代史における福岡の重要性が浮き彫りになってくる。

日本最古の絹は福岡にあった

萱島:日本最古の絹が、福岡市早良区の有田遺跡から出土していますが、これはどういう意味を持つのでしょうか。小泉 大切なのは、それが純国産の絹であるということです。これは出土した絹糸の断面を科学的に分析して証明されています。時期は弥生時代前期末(紀元前100~150年頃)で、これは邪馬台国が栄えたとされる弥生時代後期よりも300年以上前のことです。中国から伝来した養蚕の技術ですが、それを活かして、当時の有田では、技術はもちろん蚕そのものも日本の自然の中で育成した蚕品種を飼っていたのです。

萱島:当時の福岡には独自で蚕を飼い絹を織る技術を持った共同体があったということになりますね。

小泉:しかも弥生時代の絹は北部九州からしか出土していません。奈良や出雲(島根)から出土するのはその随分後の時代です。これは、弥生時代、当時の北部九州、とくに福岡あたりにこそ、相当に豊かなコミュニティが存在していたことを物語っています。

萱島:『魏志倭人伝』には卑弥呼が絹織物を、魏(中国)の皇帝に献上した記述もありますし、弥生時代に養蚕が発達していた地域が福岡だったとなれば、古代史の謎を解く大きなカギと言えますね。

有田遺跡に宿る本当の価値とは

日本最古の絹が出土した有田遺跡は、福岡市の中西部・早良平野のほぼ中央部の丘陵地にある。旧石器時代から奈良時代までの集落遺跡で、特に弥生時代初期の環濠は、長径300m、短径200mの大規模なもので評価も高い。昭和40年代に発掘調査が行われ、今は閑静な住宅街へと姿を変え、ここに遺跡があったことは、石碑と看板だけが知らせている。この有田遺跡をはじめ、弥生時代の絹の出土は福岡を中心にして北部九州に限定される。この事実は古代史の謎を解く大きなカギなのだ。

 「最初、日本最古の絹が有田から出た…と言われてもピンと来なかったんです」と語る坂口英治さん。生まれ故郷の有田の魅力を、広く後世に伝えるべく活動する町おこし研究所の代表であり、有田の町の世話役だ。「横浜のシルク博物館で年表を拝見して、その一番最初に〈有田〉の文字を見て、これはスゴイことだと感じました。ぜひ多くの皆さんと共有して、有田の魅力を知ってもらいたいと、まずは桑の木を買ってきて手植えしました。いつか、この木を〈日本最古の絹の出土地・有田〉の象徴として地域で共有できればいいなと考えています」と言う坂口さん。明治期を代表する漢詩家であり地域医療に尽力した松口月城ゆかりの地・有田に、またひとつ日本最古の絹という財産が、地域住民で広く共有されるようになることを願って活動を続けている。

町おこし研究所代表・坂口英治

日本古代史の主な舞台が、故郷・福岡だったと思うとワクワクして仕方ないんです。

先に紹介した『卑弥呼は福岡市付近にいた』著者・萱島伊都男さんの仕事を追ってみよう。「弥生の絹の出土は、北部九州に限定されている―この事実が、すべての始まりです」と萱島さんは言う。事実、日本最古の絹が出土した有田遺跡を筆頭に、福岡市だけでも6つの遺跡から絹が出土していて、うち4つは糸島市と福岡市の境にある日向峠付近である(右頁参照)。いずれも弥生時代のもので、本州、四国、南九州からは一切出土していない。本州の大和(奈良)や出雲(島根)からは、その後の古墳時代になってから。「出典は布目順郎さんの『倭人の絹』という著書です。布目さんは京都工芸繊維大学の名誉教授で古代絹を長年研究されてきた第一人者で、全国の遺跡を調べてこの結論に至っています。つまり弥生時代後期に存在したと言われる邪馬台国は、絹を出した遺跡の分布からみるかぎり、北九州にあった公算が大きいと。そして、日本へ伝来した絹文化は、北九州で醸成され、近畿地方や日本海沿岸地方に伝播したものと考えられる。私もこの考え方に賛成です」。

萱島伊都男著書

 萱島さんは、さらに続ける。「弥生時代の話で〈絹〉のことが書かれていたら、それは北部九州、特に福岡を舞台にした話と考えるのが理に適うと思うのです。弥生時代の話と言えば、邪馬台国や伊都国のことが書かれている『魏志倭人伝』であり、『古事記』や『日本書紀』といった日本の国のはじまりの物語です。これらの中には、数多く絹や絹織物が登場します。そこで邪馬台国は北部九州にあったのではないか?とか、日本の神話の舞台は北部九州ではなかったのか?という仮説が生まれたわけです」。

 その仮説を独自の視点で検証したものが氏の著書である。古代史の舞台として北部九州の歴史を紐解くと、古来よりアジアの玄関口として機能してきた福岡・博多の魅力を再発見できそうだ。

新ふるさと発見誌「九州流」

「九州流」は西日本シティ銀行が発行する九州の偉人や文化、歴史を紐解きながら、地域の魅力を再発見する情報誌です。
▼電子ブックでもご覧いただけます。
https://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/kyushuryu/

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